”盛岡山車推進会”会長登場^^
弊社会長が“盛岡山車推進会”会長。 W会長!
いよいよ明日開催!
い組
八幡町い組は、「盛岡市消防団第四分団」として、八幡町を拠点に活動しております。
盛岡八幡宮のお膝元である門前町として『町火消し「い組」の心意気と伝統』を今に引き継いでおります。
雨の五郎
歌舞伎の長唄「雨の五郎」で「廓通いの五郎」とも言われます。曽我五郎時致が仇である工藤祐経を油断させるため、金糸・銀糸の蝶の模様の着付けで、化粧坂の少将の許へ通つという物語。
白地の着物に色とりどりの鮮やかな刺繍を施し、青の番傘をかざす、華やかな場面を飾る。
見返し かむろ
禿(かむろ)とは、花町で遊女の世話をする下女のことで赤い着物を着た少女たちである。ただ赤いだけでなく、若梅の刺繍が両袖に入る。
五郎に遊女からの手紙を届けにいく姿で黒い文箱を手にしている場面です。
二番組
天明三年(-七八三)六月、南部藩三十五代利
正公の命によって十三日町の伝之丞、馬町の惣八
が火消組を組織し、「いろは組」(現在の第三分団)
と名付けた。いわゆる御用鳶である。
その創設とともに油町(現在本町通)に伝之
丞、惣八の弟分であった甚七という名の加賀鳶が
二十五人の若者を組織して「ゑ組」を創設したの
が始まりとされています。
その後、寛政の頃に南部藩の御用火消しに召し抱えとなり、明治13年県の御用鳶として「二番組」が認可され、明治27年消防第六部となり、昭和14年盛岡市警防団六分団、昭和23年現在の盛岡市消防団第六分団と改められました。
分団の纏は「ケシの実(けし←消す)」と輪違印(兄弟の深い絆を表す。また二つの輪には仲良く手を組む意もある)を紋様化したものといわれ、
現在の纏は創設当時から引き継がれています。
その当時、纏には金銀箔を用いたり、金銀をみだりに使用を許されす御雇火消しのみに使用が許されたとされています。
鵺退治(ぬえたいじ)
今より八五0年余昔、時の帝、近衛天皇が妖怪
変化に毎夜悩まされ宮中は奇怪な出来事として噂
された。
全国より高僧が参じ祈禰したが一向に験がな
かった。
そこで源氏と平家の中から武勇の土を選び警護させようとした。当時源頼政は兵庫頭にすぎなかったが弓の名手として名高い武将であった。勅命により頼政は家人の豪勇無双の猪早太をつれ奇怪な怪物を見事に一矢で射落とし、すかさす猪早太が取り押さえとどめを刺し天下に其の名を轟かせた。
見返し 俄獅子(にわかじし)
毎年九月、吉原の恒例になっていた仁和賀の気分を長唄化し、鼓唄、木遣り、投節くすし、笛入りの唄獅子の狂い合方、囃子の鳴り物、廓の情緒や俄の雰囲気を芸者姿で扇獅子を手に踊っている姿です。
三番組
三番組は南部利敬公時代の寛政11年(1799年)
から200年以上の歴史がある町方火消し組です。
発足当初は、「り組(龍吐水組・龍組)」と称していましたが、明治期に名称を「三番組」とし、その後、「盛岡市消防組第七部」となり、戦後、現在の「盛岡市消防団第八分団」と改められました。山車運行の際には、明治頃の名称である「三番組」を使用しております。
川中島
川中島の戦いは、戦国時代の最中、北信濃(現・長野県北部)に領土拡大を目指す甲斐国(現・山梨県)の武田信玄と、信玄によって信濃を追われた豪族から助けを求められていた越後国(現・新潟県)の上杉謙信との間で、千曲川と犀川が合流する「川中島」において、十余年五度にわたり争われた合戦の総称である。
永禄四年(1561年)秋、武田家軍師・山本勘助の提案した「啄木鳥の戦法」により、妻女山の上杉軍を挟撃するべく武田別働隊が海津城を発ったが、謙信はこの動きを察知し、一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、武田本隊正面に布陣した。翌朝、朝霧にまぎれ奇襲をかけた謙信が、本陣に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配でこれを受けとめたと伝わっている。これが上杉・武田両軍最大の戦い「第四次川中島の戦い」である。
「鞭声粛粛夜河を過る」で始まる詩吟「川中島」は、この合戦を表現したものである。
見返し 八重垣姫(やえがきひめ)
八重垣姫は、歌舞伎演目「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」に登場する姫である。上杉謙信の娘で、許嫁である武田勝頼(武田信玄の世子)の危急に際し、諏訪明神の使いとされる白狐の助けを借り、八重垣姫は氷の張る諏訪湖を渡り勝頼を助ける。
歌舞伎では、「祗園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)」の雪姫(ゆきひめ)、「鎌倉三代記(かまくらさんだいき)」の時姫(ときひめ)とともに三姫(さんひめ)と呼ばれている。